**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第918回配信分2021年11月29日発行 金閣寺放火炎上再建の生き証人死す 〜親しくお付き合いさせていただいた江上泰山氏逝去〜 **************************************************** <はじめに> ・元金閣寺執事長江上泰山さんが亡くなった。享年85歳。誤嚥性肺炎からの逝 去だった。この方とは、成岡の実家と長いお付き合いがあり、突然の訃報に呆 然となった。85歳の高齢になっていられたのは百も承知だが、息子さんに自坊 真如寺の住職を譲られて、市内で娘さんと一緒に暮らしておられたはずだっ た。成岡の実家が金閣寺とは深いご縁があり、一番長くそして懇意にお付き合 いいただいた。成岡の父、母の逝去の際には、深夜にも関わらず駆けつけてい ただき、枕経をあげていただいた。また、18年前の父の葬儀の際にはお導主を つとめていただいた。4年前の母の葬儀の際には、お願いはしたが高齢とお声 があまり出なくなり辞退された。祖父、祖母の法事の際には金閣寺の本堂でお 経をあげていただき、その後の会食にも快くお付き合いいただいた。 ・そして、いつも法事の後の会食の際に、金閣寺の炎上から復興、再建などの 逸話を語っていただいた。今でも鮮明に覚えているのは、金閣寺が放火で炎上 した昭和25年当時のお話しだ。当時、金閣寺には多数の修行僧が寝泊まりして いた。故江上泰山氏は中学生だった。福井県の和田村(現在の高浜町)から京 都の金閣寺に小僧として預けられていた。そして、金閣寺が先輩僧侶の放火で 炎上し燃え落ちた。犯人は裏山に逃げ込んだため、警察は当時いた小僧さん全 員を警察署に連行し、厳しい取り調べを行った。その後犯人は判明するのだ が、一時嫌疑をかけられたというお話を興味深くうかがった。当時のことを知 る生き証人は、江上氏のみになっていた。貴重な生き証人のお話しは迫力が あった。 ・金閣寺が放火炎上し燃え落ちたのは昭和25年7月。その1年半後の昭和27年 の2月、成岡が生まれてすぐに、成岡一家は京都市北区衣笠に祖父母、両親、 そして成岡兄弟の6名が引っ越した。実家の場所は、金閣寺の駐車場の北側の 出口から出てすぐの場所だ。もともと金閣寺の執事長を以前に勤められていた ITさんという方と、成岡の祖母が岐阜県の同郷であり、その縁で引っ越して近 くなったのを機に、金閣寺と懇意になったらしい。もともと祖母の実家は千本 通りの上長者町だから、金閣寺からは遠かった。当時の祖父母の宗派は浄土真 宗のはずだったが、このご縁を機にいとも簡単に祖父が宗旨替えをしたらし い。そして、成岡の実家は相国寺派臨済宗となり、その後金閣寺の檀家とな る。 <再建には苦労の連続だった> ・そこに金閣寺再建の話しが持ち上がる。再建をどのように進めるのかは、 喧々諤々の議論があったそうだが、もとの姿に可能な限り忠実にという方針の もと、資金集めの活動が始まったという。当時、成岡の祖父は京都の財界では 某組織のトップのポジションにあり、また住まいが金閣寺のごく近くでもあ り、檀家という立場から寄付金集めに奔走したらしい。かくて、地元の総力を 挙げての再建活動が始まり、おそらく祖父も一定の役割を果たしたのだろう。 のちにそれが縁で、金閣寺の檀家総代をさせていただき、祖父が亡くなったと きには、本山相国寺から許可をいただき、金閣寺の敷地の中にある墓地にお墓 を新しく設けさせていただいたくらいだ。父の死後、成岡家のお墓もその隣に 建てた。 ・金閣寺の再建は、相当に大変な大事業だったと思う。再建されたのは昭和30 年だが、建設は昭和20年代の終わりだから、多くの材料がまだそう簡単には手 には入らない。材木は全国から集めたのだと思うが、当時の国鉄二条駅に貨車 で運ばれ、トラックではなく牛車に曳かれて運ばれたという。もとの二条駅近 くには、材木商が多くいまも京都の有数の材木を扱う企業が集積するが、そこ から千本通りを金閣寺まで運ぶのは難儀な作業だった。京都市内にお住いの方 ならわかるが、千本通りは丸太町通りから徐々に上り勾配がきつくなる。そし て、今出川通りを超えるとさらに勾配はきつくなり、鞍馬口通りを超えると急 こう配を迎える。千本北大路のてっぺんは、東寺の五重塔のてっぺんと同じ海 抜の69メートルなので、その勾配のきつさがわかるだろう。 ・昭和20年代の後半とはいえ、千本通りを多数の牛車が木材を積んで、金閣寺 目指してあの急こう配をのっそりのっそり運んだ情景を想像すると、なにやら 笑いがこみあげてくる。しかし、苦労はそれでは終わらない。金箔や漆といっ た基本の材料も、なかなか入手できなかったらしい。特に金箔の接着に必須の 漆は、まだ統制下の経済では入手は困難で、四苦八苦してかき集めたと聞く。 それ以外にも多くの資材が必要だったと思われるが、とにかく金閣寺を立派に 再建するという至上命題を全うするために、多くの京都人が汗を流した。江上 氏も当時の執事長の村上慈海氏と一緒に市内に托鉢に回ったという。そして昭 和30年立派に金閣寺は再建され、数度の大改修を経て今日に至る。 <初冬の薄雪の金閣寺は絶景> ・放火炎上し、再建したので金閣寺の建物自体(舎利殿という)は国宝ではな い。炎上の前は当然国宝だった。成岡も生まれる前の話しなので、見たことも ないが写真で見る限り、炎上前の金閣寺は現在とは全く趣が異なる。金箔も多 く剥げ落ち、写真では北白川にある銀閣寺と見間違うくらいだ。そのため、炎 上前の金閣寺は有名な観光スポットでもなく、当時の執事長は京都市内に出向 いて、金閣寺に観光に来てほしいと祇園の料亭などに営業に出かけたという。 現在では知る由もない話しだが、炎上し再建が果たせたことで、金閣寺は国宝 ではなくなったが、一躍京都の有名観光スポットに生まれ変わった。いいか悪 いかは別にして、運命というものは小説より奇なりだ。のちに多くの作家がこ の金閣寺の炎上事件を小説に書いた。 ・だいぶ前だが、一度この再建された舎利殿の中に入らしていただいたことが ある。成岡が中学生くらいだったか、当時祖父が檀家総代だった。そのとき、 成岡の自宅に祖父の知人から生きた鯉をいただいた。当時の実家には池はな く、相談の結果金閣寺の舎利殿の池に放してもらおうとなったのだろう。大き な木製の平たい樽に鯉を入れて、金閣寺の池に持ち込んで放してやった。その 際に、通路から舎利殿の囲いの中に入れていただき、鯉をはなすときに少しの 間、舎利殿の中を案内していただいた。昭和30年代の後半だったと思うが、当 時も観光客が多く、我々家族が通路から舎利殿の囲いの中に入る光景を見た観 光客が、一緒に入れるのだと錯覚し、後ろをついてきて困ったことを覚えてい る。 ・建物の中は三層になっており、室町時代の武家建築の姿を美しく残してい る。建物の中より、やはり一番美しいのはうっすらと雪をかぶった金閣寺が朝 方の朝日に照らされてまぶしいくらい輝いている姿だろう。実は、そんな金閣 寺の姿を現物で見た経験は全くない。写真やTVのニュース、そして新聞社のヘ リコプターからの写真くらいだ。最近ではドローンを飛ばしての撮影になるの だろうが、うまくいけば美しい金閣寺の姿が池の水面に映って、逆さ金閣のよ うな風景になる。一生に何回見られるかわからないこの絶景を写真に収めたい アマチュアカメラマンは多い。前の晩から天気予報を聞いて、特に初冬の雪景 色は絶景なので、そのタイミングを見計らい、深夜から準備をするカメラマン もいるという。 <墓地のお墓はなんと宗派は問わず> ・以前個人タクシーに乗った際に、運転手さんとこの話題になり、その運転手 さんはカメラ好きで、それが高じてタクシー会社を辞めて時間が自由になる個 人タクシーの運転手になった。個人タクシーの運転手なら時間に縛られず、好 きな時に好きなことができるから、年に数回しかない雪景色の金閣寺を撮影す ることを念願とされていた。ちなみに、正面の門の開門は午前9時で、一番に 撮影しようと思うと明け方から雪の日は早くから門の前に並ぶという。新聞社 や報道メディアの方には、時間前に撮影はお許しがあるのだそうだが、一般の アマチュアカメラマン垂涎のショットは、寒い中を並んでの撮影となる。それ でも、絶景の雪景色の朝日に映える金閣寺を撮影できるのは幸運と執念の賜物 だ。 ・金閣寺にはもうひとつの不思議がある。それはお墓の宗派を問わないこと だ。臨済宗のお寺であり、総本山相国寺の寺外塔頭であるが、墓地にあるお墓 を見ていると無宗教だと感じるのは自分だけではないだろう。ちなみに、金閣 寺の墓地は正面の黒門から入って左手にある鐘楼の前の道を南へ進んだ奥にあ る。墓地はお墓の関係している人しか入れない。門番はいないが、なんとなく 知らない人を拒む荘厳な雰囲気がある。成岡と母の実家である藤井家のお墓 は、墓地の一番前の角地にある。昭和50年代に母の父である祖父が他界し、2 年後に祖母も後を追った。そのとき相国寺にお願いして墓地を入手した。そし て平成14年に父が他界したときに、その隣の土地をいただいて成岡家の墓を建 立した。 ・周囲のお墓は約100基くらいだろうか。そのお墓の形状を見ていると、キリ スト教の十字架あり、天理教あり、浄土真宗あり、何でもありなのだ。当初、 不思議でたまらなかって亡くなった江上泰山氏に法事の際に聞いたことがあ る。返事はいとも簡単で、その通り宗派宗旨を問わないのだ。縁のあった人し か入れない。本山が許可したわずかの人たちの墓地なのだそうだ。そして、最 近では新しいお墓の建立は認めないようだ。確かに、10年ほど前からお墓参り に誰も来ていないと思われるお墓が増えてきた。お墓が荒れ放題にあり、苔が 生えて見苦しい墓地が増えてきた。その対策として、南西の角あたりに大きな 塚を建立し、放置されていると思われるお墓の集約を図っている。苔むしたお 墓には札を立て、数年間音沙汰のないお墓はその塚に永代供養するという。成 岡家のお墓も、いつかは永代供養になるのだろうか。