**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第639回配信分2016年07月25日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その37 移籍した中小企業で経験したシリーズ 〜京都本社でのクーデターで異動を余儀なくさせられる〜 **************************************************** <はじめに> ●昭和61年の春から、新しいメディカル事業部でこの1年間に残念ながら退職 した者も数名いた。中途で退職した数名は、何とか説得を試みたが、やはり言 い出したときは遅かった。理由は明快。会社案内などで聞いた業務の説明と、 実際に入社してやっていることとのギャップがあまりに大きいというのが、ほ とんどの退職者の理由だった。いつかは編集や企画の部署に行けると、大志を 抱いて入ったにも関わらず、毎日毎日が外勤の営業では、とてもモチベーショ ンが維持できないというのが理由だった。 ●さもありなんということで、言い訳や弁解がましいことは一切言わなかっ た。ただ、希望する部署に将来異動するにしても、この営業の経験は絶対役に 立つと説明した。会社説明会でもそのように説明したつもりだったが、若い年 齢の新卒社員の中には、希望すればすぐに希望の部署に行けると勘違いする者 もいた。本人を責める気は毛頭ないが、周囲の同期生へ与える影響のほうが大 きかった。当然、退職を決意しだしたときは、同期生の友人に相談したり、打 ち明けたりする。ほとんどのケースは、そこまで行くと止まらない。その手前 で察知して動かないといけない。 ●早い者は入社して半年くらいで退職の意向を言ってきた。言ってきた時点で は、もう遅い。翻意をするように試みたが、ほとんどのケースはダメだった。 しかし、退職届を持ってきたからといって、あっさり受け取るわけにもいかな い。事業部長としては、やはり翻意を促すのが筋だ。まして、同期生はほとん ど全員が瞬時に情報共有している。責任者がどう応対し、どう答えたかは、そ の日のうちに事業部内を駆け巡る。神経を使って応対するが、それでも言葉の 誤解や受け止め方、解釈の相違は起こる。悪い風評はたちどころに蔓延する。 火消しに追われることも多かった。 <結果を出すしかないと開き直る> ●初年度1年経過した段階では、京都の本社から営業成績の悪い社員に関して 決断を迫られたことも、一度や二度ではない。しかし、基本的は性善説に立 ち、いま実力が発揮できない新入社員も、いずれ成長し貢献するはずだ。それ を信じて、毎日毎日研鑽を積むことだ。決して諦めてはいけない。人を信じ て、とことんまで付き合う気持ちがなければ、絶対に人は育たない。即戦力を 期待した中途採用ではなく、育てることを目標にした新入社員チームであり、 そういう趣旨のプロジェクトであったはずだ。しかし、京都本社の抵抗は強 かった。 ●ここは開き直るしかない。結果を出すしかない。業績を残すしかない。悲壮 な決意で1年目の春を迎えた。業績は徐々に良くなってきたが、京都の本社は その速度が遅いのが気に入らない。まして、2年目の新卒社員の数名が、メ ディカル事業部に配属になるという。当然、後輩は先輩に毎日毎日聞くだろ う。そういうときに、事業のことをネガティブに伝える先輩がいるとやっかい だ。我々管理職の言うことより、1年先輩の言うことのほうが、現場的だし理 にかなっている。あまり難しい理屈を言うより、ここは動いて、結果を出し て、実績でものをいうしかない。 ●そのように開き直ると、案外強いメンタルになる。どうしよう、どうしよう と、迷っていると自信はなくなるし、外から見ても一目瞭然だ。だから、ここ は嘘でもいいから元気を出したところを見せないといけない。そう思って、ギ アチェンジをして、強気で行くことにした。原則4月の異動はなしで乗り切 り、数名の第2期生の新卒社員を受け入れた。営業現場の合間、合間に会社説 明会、採用面接、受け入れ教育に参加し、時間的には非常にきつかった。採用 現場の京都の本社と、地方の営業現場を行ったり来たりした。 <企画編集部門の取締役のクーデター> ●数名の第2期生の受け入れ教育も無事に終わり、連休明けに配属先のチーム に合流させた。その当時は、甲信越地域に2チーム、神奈川県に1チーム、広 島県に1チームだったと記憶している。成岡は東日本を中心に動いていたか ら、神奈川県チームと新潟チームの間を頻繁に移動していた。時期は忘れたが 神奈川県のチームの朝のミーティングに参加していたときに、京都の本社から 連絡があった。朝の営業チームのミーティングは非常に大事な時間だ。そのと きに電話してくるのは、論外のはずだ。相当緊急なのだろう。 ●仕方なく電話に出ると、編集チームで集団クーデターが起こったという。 クーデターとは大げさだが、ときの企画編集部門の責任の取締役が、数名の部 下を引き連れて退社して別会社を設立するということだ。従来から、この取締 役と代表者との間では、企画編集のあり方をめぐって路線の対立があった。会 社の基本方針をめぐる路線の対立だから、よくどこにでもある話しだ。もとも と、学術専門書の出版社だった。そのハイレベルな学術書の世界に魅力を感じ て編集部門の取締役は中途入社している。 ●確か東北大学を卒業して東京の大手出版社に在籍していたのを、義兄の代表 取締役が口説いて京都に単身赴任で来てもらっていた。自宅は東京だった。都 内木場の生まれで生粋の東京人だった。ことほど左様に、京都人と東京人との 文化、風土の違いもある。会社が大きくなり、規模が一ケタ違ってきて、編集 部門も組織になり、マネジメントも必要となる。当時企画編集部門は20名以上 の大所帯だった。専門書の出版社として、単行本も大型企画も、たくさんの企 画プロジェクトが同時並行で数本走っている。 <後始末に翻弄され異動が決定> ●路線の対立とは、要するにあまり収益の上がらない専門書にこだわって良質 な書籍を出すのか、利益が出ればどんなジャンル、どんな内容でもいいと割り 切って文化の香りの少ない書籍でもやるべきか。永遠のテーマである「儲かる 本を出すのか、質を追求するのか」なのだ。これは、会社としての基本的な命 題だ。少なくとも、昭和47年に設立創業された時点では、良質の学術専門書を 出版し、日本の文化に貢献するという高邁な理想を掲げて出発したはずだ。し かし、時代の変化、会社の変化と共に理念も変質した。 ●もうけ主義に走る姿勢は許せないとばかりに、息のかかったメンバーを引き 連れて集団脱藩するというクーデターだった。責任者の取締役以下、数名の若 手の編集マネジャー、女性のアシスタントなどが呼応しているという。この チームが抜けると大変だ。ここはすぐに説得して慰留しないといけない。しか し、電話での感じでは、ことはもう遅きに失したようだ。シナリオは出来上が り、もう事態は最悪の方向に進んでいるようだ。電話の向こうの雰囲気も相当 に動揺している様子が見て取れる。かくて、一時現場を離れて京都本社にすぐ にとって返した。 ●緊急の幹部会議が数回持たれたが、収拾は困難だった。なし崩し的に退社が あり、その後すぐに外部に別法人が設立され、敵対的な緊張した関係が始まっ た。あとは、制作部門のHさんが臨時的に編集部門の責任者となり、3番目の 義兄が取締役として補佐する体制に変更された。このあたりから、少しずつ会 社の中の仕組み、制度、風土、文化、理念、方針がぶれだした。何かおかしい 感じがしながらの違和感があった。その後、すぐに京都本社に異動になり、営 業事業部から外れることになった。悔いの残る異動だった。管理部門の責任者 を命じられた。