成岡マネジメントオフィス

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IT経営塾勉強会周年記念特別講演会(5周年)

2006年11月23日(祝・木)、京都市中京区のハートピア京都にて、IT経営塾勉強会5周年記念特別講演会を開催いたしました。主催者・成岡秀夫の挨拶の後、アサヒビール株式会社京滋支社支社長・古泉博氏より「スーパードライ誕生に至るまで 〜アサヒビールの歴史と取り組み〜」と題して、講演いただきました。

そして、パネルディスカッションに移り、「なぜスーパードライはヒットしたのか」について、古泉博氏 ・ 市田美加氏 (株式会社アロンジェ 代表取締役)・ 築地達郎氏 (株式会社京都経済新聞社 代表取締役)・ 成岡秀夫 (コーディネータ)の4名で熱心な質疑応答や討議を交わしました。
最後に診断協会京都支部長・玉垣勲氏より閉会の挨拶をいただき、講演会は無事終了いたしまいた。

その後、場所を レストラン(ハートピア京都2F)に移し、懇親会となりました。尼崎信用金庫・樽谷昌彦氏のご挨拶をいただいた後、成岡が参加者1人1人をご紹介いたしました。参加者同士の歓談や名刺交換も活発に行われ、大変有意義な会となりました。ご参加いただいた皆様、誠にありがとうございました。

講師の古泉博氏 多数の参加者で満員の会場
パネルディスカッションの模様 パネリストの市田美加氏
パネリストの築地達郎氏 懇親会・・・スーパードライをたくさん飲みました!


▼以下に古泉氏の講演要旨を掲載いたします。

「アサヒスーパードライ誕生と取り組みについて」 講演要旨

日頃はアサヒビールをご愛飲いただきありがとうございます。京滋支社の古泉です。

今日は、アサヒスーパードライが誕生に至るまで、次にお客様のご支持をいただいてナンバーワンブランドになるまで、そして来年は誕生して20年になるので、今後の取り組みに関して、その3つをお話ししようと思います。

アサヒスーパードライ誕生については、4つのポイントがあります。会社の歴史、企業体質の変革、社内の結束、そしてマーケティング戦略です。

 

会社の歴史

まず、会社の歴史に関してですが、創立は1889年明治22年です。1906年に札幌麦酒、日本麦酒と合併し、大日本麦酒が設立されました。戦前はサッポロビールと同じ会社でした。昭和24年に大日本麦酒が解散され、アサヒビールを設立。その後、アサヒスタイニー他画期的な商品を発売しましたが、業績向上に結びつかない時代が続きました。昭和24年には36%のシェアがあり、キリンビールが25%でした。それが昭和30年には31.7%、昭和40年に23.2%と落ち込んで、とうとう昭和55年に11%になりました。CI導入前の昭和60年に9.6%まで落ちました。企業の存続の危機でした。

アサヒビールが低迷した要因には、いくつかの説があります。戦後2社が分離して、西日本はアサヒが地盤、東日本はサッポロが地盤であり、商圏が分かれました。分割によるマイナスの要因です。キリンは逆に全国的にはブランドとして認知されていました。また、当時、アサヒ・サッポロが飲食店を対象にしていたのに対し、キリンはいち早く家庭用市場へ進出したとも言われています。
しかし、本質的な要因は、消費者の口に合ったビールをつくっていなかったことです。

そういう中、昭和57年に村井が社長に就任しました。当時、会社には明確な経営理念がありませんでした。それを村井は策定しました。「消費者志向」を明確に打ち出し、行動規範を定めました。また、長期経営計画も策定しました。村井は”流れを変えよう”ということで企業体質の変革に取り組みました。

 

企業体質の変革

企業体質の変革にあたっては、プロダクトアウト型からマーケットイン型へ考え方を転換していくことが重要でした。そういった中でCIの導入を行いました。背景には「社会の流れの変化に対する企業としての対応」「社内態勢・社員の行動・意識の変革」「ビールシェアの回復」などがありました。主人公は社員であり、意欲と積極的な行動を起こさせること、企業文化の一新が目的でした。

ビジュアル面の変更と共に、ビールの「味」と「ラベル」の変更に踏み切りました。食品業界では「味とラベルの変更」は大変リスクが伴います。しかし、新しいアサヒのイメージづくりのためには必要不可欠と判断しました。

昭和30年代は毎年2桁の大幅成長でつくれば売れた時代でした。昭和50年代に入ると2-3%の伸びとなり、つくっただけでは売れない時代になりました。昭和50年代末期は、既存の商品に新たな機能やファッション性をプラスした「付加価値マーケティング」となり、ビール業界もおもしろ容器を中心とした「容器戦争」になりました。具体的には、とっくり缶やペンギン缶といった容器で差別化を図ろうとしたのです。

振り返ってみると、その当時のビール業界は、消費者や市場に対する有効なマーケティング戦略を持ちえてなかったのかもしれません。最低のシェアにまで落ち込んで、その2年後にアサヒスーパードライは発売になりました。

CI導入当時は、本格的なビールマーケティング胎動の時でした。当時ビールは成熟商品といわれ技術格差のない業界でした。したがって、下位メーカーには不利な状況でした。そういった中で私どもは「味で流れを変える」ことをマーケティングの戦略コンセプトにしました。

 

マーケティング戦略

当時のマーケティング戦略について私どもは3つの考え方を持ちました。1つは「消費者はビールの味がわかる」ということです。消費者がビールを飲んだときに生理的快感を感じるかどうかがポイントになります。生理的快感はその人の味覚にフィットして初めて感じるものです。ビールのメインユーザーにフィットする味を作れば、ビールの人気が出て売れる訳です。

当時、マーケットは人口構造の変化が起こり、それがイノベーションを引き起こす原因となっていました。第1世代から第4世代まで市場は細分化され、世代間で食生活が違うという現象が始まっていました。昭和60年はあっさり、うす味が好まれ、世代交代のウオンツにフィットする味が求められていました。価値観の変更が始まっていました。

2つ目は、「人口業態の変化がイノベーションを引き起こす」ということです。当時私どもは消費者の方を第一・第二・第三・第四世代に分けました。各々の世代で食生活の違いがあり、世代によってうまさの判断基準が違うと考えました。当時は肉食中心となり、飲み物はあっさり、薄味にシフトを始めていました。ビールのメインユーザーの世代交替も始まった時期でした。

3つ目は「新しい価値観の創造なくして革新なし」と考えました。下位メーカーはトップブランドと同じ味では勝てない、一味違った味をつくらないと勝てないと考えました。

そういう考えに沿って2つの仮説を立てました。それは、「消費者はビールの味がわかる」ことと「ビールのうまさの判断基準は時代とともに変化する」でした。その仮説を検証するために消費者調査をした結果は次の通りでした。

ビールのうまさの判断基準は変化している。「重くて苦い味」から「口に含んだときに豊醇な味わいがあり、飲んだときののどごしのより爽快な味」に変化している。これをもとに新しいビールコンセプトを生産サイドに提案しました。その新しいビールコンセプトに基づいてつくった生ビール(アサヒ生ビール)を発売しました。「コクがあるのにキレがある」というコピーはご記憶にあると思います。

 

成功の要因

アサヒ生ビールの成功の要因としては4つあります。1つ目は地道な基礎研究を通しての技術力、2つ目は消費者のニーズを翻訳しビールの味を設計する言葉を生産サイドに伝える組織づくり(生産プロジェクト部)、3つ目は生販両部門が一体となって商品開発を推進、4つ目は今までの「お願いスタイル」の営業から「品質で商品を語る」営業に変革したことです。

コクキレビール(アサヒ生ビール)発売後のマーケティング戦略の第二段階として、「従来のトップブランドとひと味違った味で新しいビール通を魅了する」ビールの開発を進める必要がありました。それはコクキレビールだけではマーケティングビジョンを実現できなかったからです。従来のアサヒビールをブレークスルーするスーパードライの開発が必要でした。

ビールは醸造酒です。穀物が原料なので短所として雑味や独特のエグ味、ベトベト感があります。その短所を克服することを味づくりの基本コンセプトにしました。即ち、「雑味のない味」「洗練された味」そして「クリアな味」です。

新しいビール通の嗜好に合ったビールの開発が進められました。辛口ビールのコンセプト開発です。当時の日本人の嗜好の変化をふまえ、味のコンセプトを「味覚がさらりとし、後味がすっきりし、20代から30代のお客様が飲みあきない、いわば辛口のビール」としました。

スーパードライの開発の技術的裏付けとして、原料である麦芽の選択、仕込み方法の工夫、そしてビールの魂である酵母の選択を行ないました。
スーパードライは「食事をしながらでも何杯でも飲めるビール」「世界初の辛口ビール」として発売し、それがお客様に受けました。消費者ニーズの新しい流れをうけて独自に開発したニューカテゴリーであり、トップブランドとはひと味違う味のビールによる新しい市場づくりを目指しました。ヘビー・ミドルユーザーのニーズである「何杯でも飲める」「飲み飽きない味」である「洗練されたクリアな味」の追求を行ないました。

スーパードライのマーケティング戦略は、まさにトータルマーケティングでした。1つ目は「商品力」。物的品質力としての最高の品質、精神的品質力としての消費者の満足を高める。2つめは「情報力」。広告宣伝を今までの抽象的なイメージ広告、ムード広告を排除し、商品コンセプトを正しく伝えるカタログ的コピーにし、パブリックリレーションではマスコミ記事における話題化を図りました。また、大規模な店頭試飲会を実施しました。3つめは「営業力」。売れない時代のお願いスタイル営業から品質論争型の「語る営業」に転換をしていきました。マーケティング展開として、広告宣伝+パブリックリレーションで「見ていただき」、街頭試飲会で「飲んでいただき」、店頭でのPOP、店頭陳列で「買っていただく」ことを実施しました。

 

発売20周年に向けて

その後、ドライ戦争を経て順調に伸び続けましたが、平成2年に踊り場を迎えました。それを打開するために平成3年にスーパードライのブランドイメージを一新。また平成4年にはそれまでのビールのフレッシュローテーションから、工場で製造したビールを1日でも早く出荷するフレッシュマネジメントに転換し、鮮度の高いビールをお客様にお届けする努力を続けました。お陰様で平成9年にお客様のご支持をいただきトップブランドとなり、翌年平成10年にはビールで年間トップシェアを、平成13年には発泡酒を含めたビール類でトップシェアをいただくことができました。

来年3月でスーパードライは発売20年を迎えますが、新たな挑戦を行なっていきたいと考えています。お客様からビール工場で飲んだできたてのビールがおいしいという声をよく聞きます。私どもとしては「ビール工場でできたてのビールをご家庭でも飲食店でも飲んでいただくこと」に挑戦していきます。そのために「製造後一刻も早くお客様にお届けする」「酸化しにくいビールを造る」「飲食店で最高の状態で生ビールが提供される」ことに挑戦していきます。

今後とも何卒ご支援ご支持賜りますようよろしくお願いします。